避難を強いられた人々はさまざまな苦難にあいました。そうした人々の苦難に寄り添おうとする姿勢が、副読本の文章からは感じられません。
富岡町の佐藤さん
富岡町は震災翌日の2011年3月12日未明に、原子力緊急事態で町民全員が避難するように指示されました。
【佐藤さん宅 富岡町 2015年7月】
2017年3月、この地域一帯は除染が完了したというので避難指示が解除されました。佐藤さんはかつて原発関係の仕事をしていて、福島第一原発にも出入りしていました。自宅の周辺が放射線管理区域の基準、毎時0.6マイクロシーベルト以上になっていることを知り、とてもここに住むことは出来ないと決断しました。
【毎時2.162マイクロシーベルト】 他写真 【放射線管理区域:毎時0.6マイクロシーベルト以上。一般人の立ち入り禁止。飲食禁止。就寝禁止。児童立ち入り禁止。】
2016年、佐藤さんは家を解体したそうです。
南相馬市小高(おだか)の村田さん
【南相馬市小高(おだか) 村田さん宅】写真
南相馬市では原発からの距離が20kmより内側の地域には3月12日の夜になってから避難指示が出されました。原発の建物が次々と爆発する中でその外側の地域の住民も各自の判断でそれぞれ避難しました。
【毎時0.919マイクロシーベルト】
【毎時9.03マイクロシーベルト】
その後、村田さん の自宅がある小高は避難指示解除準備区域に指定され、住民の帰還を進めるために除染が行われました。
2015年8月
【いぐね(居久根):東北地方の農家の防風林。】
いわき市の鴨下さん
2011年3月11日の原発事故直後に、放射線被害を予想してご自分で判断し避難しました。避難指示は出ていませんでした。
いわき市にある国立福島工業高等専門学校准教授でした。
豊かな自然が近くにあることが魅力・・・