全体(4)  相変わらずの欠如モデル  ↑前のページへもどる

 「欠如モデル」とは「主に科学技術に関する社会問題について、一般市民に科学的知識が欠如していることが問題の原因だと考え、一般市民に知識を与えれば問題は解決できるという考え方」です。

 例えば、原発問題についてあてはめると、「一般市民に原発の安全性や有用性の知識を与えれば、原発問題は解決できる」という考え方が「欠如モデル」ということになります。

 これが典型的な原子力行政の考え方です。原子力行政は、これまで原子力政策に関するコミュニケーションを「ご理解いただく」ことだとしか考えず、原子力について一方的な宣伝や情報提供をおこなってきました。このことから、原子力行政の考え方が「欠如モデル」だということがよくわかるでしょう。

 しかし、民主主義とはそういうものではありません。原子力については、専門家は技術に関しては詳しいでしょうが、危険性を人々がどう受け止めるか、費用は誰が負担すべきか、将来世代への負担の押し付けをどう考えるか、実際に事故が起こったらどうなるか、等々、一般市民が考えることがたくさんありますから、その上で民主的に政策を決定すべきです。

 つまり、今の原子力政策が行き詰まっているのは、「欠如モデル」による「ご理解いただく」という一方的上意下達の考え方にあるのではないでしょうか。

 その視点から放射線副読本を見直すと、ある政治的意図を持った一方的な情報提供のみで、両論併記にもなっていません。つまり、典型的な「欠如モデル」の考え方で作られていることがわかります。

 文科省はいつまでこんな愚かな教育をおこなうつもりなのでしょうか。これからの時代に必要な「21世紀型能力」や新学習指導要領の「主体的、対話的で深い学び」とも完全に矛盾しています。


        
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