教員用p.7 放射線の利用 ↑前のページへもどる

 今、福島原発事故によって大量にまき散らされた放射性物質の中で、身の危険を感じながら暮らすことを強いられている児童・生徒にとって、この時点で放射線の有用性について学ぶ必要がどれほどあるのでしょうか? ここに書かれている内容は、緊急に出版されたこの放射線副読本が、これほどの分量で取り上げるべき内容とは思えません。それはむしろ、この副読本の制作に当たった「原子力ムラ」の関係者のあせりを反映していると思われます。放射線に対する恐怖よりも、有用性を教えることにより、原子力利用の可能性を残しておきたい、そんな当事者達の「あせり」の反映ではないでしょうか。

 生徒用の副読本p.7についてのコメントを次に載せておきます。
 放射線の利用については、とても内容が充実している。でもいま、小学生にとって必要なことは、このような「放射線の利用」について、理解を深めることでしょうか。
 福島原発で大勢の人々が被ばくし、高レベルの放射線汚染により、今後数十年間故郷に戻ることが出来ないようになってしまいました。このような放射線の有用性を説くのは、原子力にあこがれてその研究・開発を目指す児童生徒が一人でも残るように、原子力産業の最後のあがきのようにも見ることが出来ます。

 日本でどのようにしてこのような放射線の研究利用が盛んに行われるようになってきたのでしょうか。そのいきさつを見てみましょう。
 日本で原子力の開発が始められた1950年ごろ。広島・長崎の原爆投下により、核・原子力開発に関して日本人は「怖いもの」「おそろしいもの」というマイナスのイメージをもっていました。このイメージをふきとばすために、初代科学技術庁(当時)長官に就任した正力松太郎氏が、その経営する新聞・テレビ(読売グループ)を中心に、日本のマスコミ界を総動員して、原子力技術のバラ色のイメージをひろめるために『原子力の平和利用"Atoms for Peace"』の一大キャンペーンを展開したということです。各地で「原子力博覧会」が開催され、「原爆」と「原発」はちがうものだとして原水爆禁止運動の関係者も、原子力の平和利用に期待を寄せたそうです。
 当時の情景に、現在のこの文科省の活動が重なって見えます。ちなみに、政界で原子力開発の旗振りをし、日本で初めての原子力予算を提案したのは中曽根康弘氏です。その科学技術庁というのは、そもそも原子力開発を担うための創設された組織であり、その開発の中核は、今日の高速増殖炉「もんじゅ」に引き継がれている、核燃料サイクルです。現在の文部科学省はその科学技術庁と文部省が統合(2001年)されて出来ています。ですから、この放射線副読本でも、放射線の効用をうたう内容がこれだけ充実しているのです。
 しかし、今回の福島原発事故を契機に、これまでの原子力開発そのものを見直す時期に来ています。しかし、そのことを文科省は理解していないし、しようともしていないように思われます。
ただし、今後も原子力・核関連の技術は必要です。ですが、それは、これだけの被ばくがもたらされたことの後始末や、また各地の原子力発電所やその関連施設の後始末と、おそらく、十数万年は管理し続けなければならない核廃棄物の安全で確実な管理のためでしょう。そうした方向性をきちんと持つべきではないでしょうか。

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