教員用 p.22c 放射線の規制値
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 「(この1mSv/年という線量限度について)これらの限度を超えれば、健康影響が現れるというような安全と危険の境界を示すものでは無い。」 
 この記述は、事故後に政府当局者によって発せられた「直ちに影響はない」という言明に似ている。低線量放射線被ばくによる健康影響は、放射線特有の事象であり、化学的な毒物とは異なり、確率的影響であり、概して晩発的影響であるので、他の要因と明確に区別がつきにくいという特徴があるので、因果関係がうやむやにされてしまうということに注意すべきである。
 またこの記述は、今回の福島原発事故でこの線量限度を超える被ばくが各地で起こってしまったために、人々の不安を鎮めるための言い方である。そもそも基準値はそれなりの根拠があって定めたはずで、その基準を守ることで一定の安全が担保されるもののはずである。それを現実が先行したために、実はその基準はたいしたことは無いなどと、その場しのぎの言い訳をしているようだ。

 「・・・・計画的な防護が出来ない状況であるので上述の年間1mSvという線量限度は適用されず、緊急事態期や事故収束後の復旧期の参考レベルという制限値を用いて防護する。・・・」 
 非常に居丈高な物言いで、現実に被ばくした人々の気持ちを逆なでる記述である。極めて機械的な記述で、このような事態を招いてしまったことへの問題意識を読み取ることが出来ない。それは、次の末尾の記述につながる、この副読本の編集者たちの立ち位置を表している。すなわち・・・
 「しかし、ICRPは、この防護措置について過大な費用と人員を掛けることなく、経済的、社会的に見て、合理的に達成できるかぎりにおいて行うべきであると述べている。」
 この記述は、ICRPとこの本の編集者および文科省のコストベネフィット論的体質を物語っている。
ICRPのお墨付きに甘えて、被ばくの危険性に直面している国民を見ていない書き方である。放射線防護に関して、出来る限りの努力をすると表明するのではなく、「過大な費用と人員を掛けることなく、経済的、社会的に見て、合理的に達成できる限りにおいて行うべき」というのは、人命尊重よりも経済原理優先、の功利的発想に他ならない。これをこども達に教えろと言うのであろうか?

 今、目の前で、危険にさらされている人命があるとしたら、経済原理優先だから、救助にはお金がかかりすぎるので、救助はあきらめてください、と言明する人がいるだろうか? 放射線の影響は、晩発的影響でもあるだけに、すぐ目の前にある危険ではないところが、問題を見えにくくしている。

 この項目でこどもたちに教えるべきと思われるのは、放射線防護に関する ALARAの法則(As low as reasonably Achivable). であろう。すなわち「(放射線被ばくは)合理的に達成可能な限り、出来るだけ少なくする。」
 法則を直訳すれば、本来「放射線被ばくを合理的に達成可能な限り、できるだけ低く抑える」という意味であるのに対して、文科省などは「達成可能な限り」を「合理的な範囲内」に限定するような意味に解釈しようとしている。「達成可能な範囲」が例えば経済情勢によって「適宜」「合理的」に変動するかのような恣意的な解釈は、人命軽視とも受け取ることができる。こういう解釈をこの副読本が主張しているということは、被ばくの危険性を顧みず安全措置をおこたって原子力開発を推進してきた文科省が、事故の責任をとるつもりはないといっているに等しい。 これがいわゆる「原子力ムラ・放射線ムラ」の本音だろう。教育の場にふさわしいとは思えない。
教師用p.21-aの注も参照

 線量限度という考え方があるが、原子力産業によるWeb事典"ATOMICA"には右のように記述されている。つまり、線量限度はガマン値であり、それを超える線量は受け入れ不能であるとされている。
 日本の現状は受け入れ不能である。

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