核兵器と核実験D

   第五福竜丸ふくりゅうまるの被ばく


 1954年3月1日、アメリカ軍がビキニ環礁かんしょうで行った水爆実験によって日本のマグロ漁船第五福竜丸が死の灰を浴びました。真っ白な雪のような灰だったそうです。ロンゲラップ島のこどもたちも海岸でこの灰をかぶって遊んだのですが・・・。

 第五福竜丸が被ばくしたところは爆心地から160kmもはなれた危険区域きけんくいきの外でした。乗組員23人は母港である焼津港やいずこうに帰り着くまでの14日間、体についた死の灰から大量の放射線をあびつづけ、毛がぬけたり、もどしたりなど急性の放射線障害ほうしゃせんしょうがいの症状をしめしました。全員直ちに入院治療を受けましたが、中でも症状の重かった無線長の久保山愛吉くぼやまあいきちさんは9月に亡くなりました。
 被ばくしたときには大部分の船員は20歳代の健康な若者でした。しかし、半数以上の方が50歳代前後でがんなどのためになくなっています。

 第五福竜丸以外にもこの近くで漁をしていた漁船は多く、その後も行われていた核実験のために856隻以上が被ばくしたといわれています。被ばくした漁師もいたはずですが政府は調査をしませんでしたのでその実態じったいはしられていません。かわりに高校生がその調査を行い報告しました。水揚げみずあげされたマグロは放射線をはかるガイガーカウンターで調べられ、汚れていたものは“ 原爆マグロ” としてすてられました。

 しかし、アメリカ原子力委員会は「ビキニ・エニウエトク環礁外の魚の放射能を恐れる理由はない」などといって、被害をうったえる声に耳をかそうとしませんでした。
 そこで、日本学術会議の科学者達が俊鶻丸という船に乗ってビキニ海域の調査に行きました。海水の放射能汚染は予想よりもはるかに高いことがわかりました。アメリカはこれを認めないわけにはゆきませんでした。

 日本人ばかりか世界の人々が原爆実験に不安をもち核実験反対運動がひろがって行きました。ついに1963年、大気圏内核実験(注)たいきけんない かくじっけんは停止されました。

注)1963年8月調印 部分的核実験禁止条約(PTBT)

資料
・映画「第五福竜丸」新藤兼人監督 宇野重吉、音羽信子主演
・『ビキニ事件の真実』大石又七著 みすず書房2002年
・『ビキニの海は忘れない』博多高校生ゼミナール
    / 高知県ビキニ水爆実験被災調査団篇 平和文化 1990年
・『死の灰と闘う科学者』三宅泰雄著 岩波書店 1972年
・ビキニ調査船俊鶻丸の調査結果について 公衆衛生年報1954.11
   国立衛生試験所 浦久保五郎
 CiNii(NII論文情報ナビゲータ) http://ci.nii.ac.jp/ より検索可能
・森住卓(もりずみたかし)さんのホームページに最近の様子あります 
    マーシャル諸島(ビキニ水爆実験)



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