スリーマイル島、チェルノブイリ原発事故と被害の実態
スリーマイル事故・・・原発2号炉メルトダウン事故
チェルノブイリ事故・・・原子炉暴走事故
参考資料

原子力発電所は 環境に優しく、最も安全に留意して作られ、万一事故があっても緊急冷却装置が働き、大事故にはつながらないといわれていました。しかし、アメリカでスリーマイル島(TMI)原発事故、ウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイリ原発事故が起こりその神話は崩れました。

これまでに起きた重大な原子力事故例

スリーマイル事故・・・原発2号炉メルトダウン事故

 最も技術の進んだ、情報公開先進国ともいわれるアメリカで発生し、大量の放射能を撒き散らすことになった重大な原子力事故です。今から約20 年前の1979 年3 月28 日、東部ペンシルバニア州にあるスリーマイル島(TMI)の原子力発所で事故がおきました。原子炉の核心部ともいえる炉心部分が冷却水不足のために溶けてしまうという大変な事故でした。始めは原子炉の本体からは遠く離れた小さなトラブルをきっかけとして蒸気発生器の給水が止まってしまい、本来原子炉に冷却水を入れなければならないのに、ランプの表示が不適切であったことと炉心の水位を外から見られない構造のため、運転員はそれと気付かず、かえって緊急冷却装置を絞ってしまいました。そのため、原子炉容器の圧力が上昇、圧力をにがすために開いた加圧器逃がし弁が開きっ放しになり、原子炉の冷却水が漏れて、原子炉の空焚き、燃料の溶融・崩壊に至りました。

 被害は時々刻々と、「原子炉が爆発するのか。大都会の集中したアメリカ東部が崩壊するのか」というニュースが続き、母親が赤ちゃんを抱いて続々と避難を始めました。事故3日後には「8キロ以内の学校閉鎖、妊婦・学齢前の幼児の避難勧告、16キロ以内の住民の屋内待機勧告」などが出され、周辺の自動車道路では避難する車による大パニックが発生しました。格納容器に充満した水素ガスが爆発をおこす可能性が高まっていたからです。そこには、安全性より経済性を優先したという背景があります。チェルノブイリ事故より7 年も前のこの事故によって世界中の人々が原発事故の恐さを実感しました。しかし、この事故は現在の日本では報道・研究機関で全く忘れ去られたかのようで、私達市民がその後の状況を知ることは難しくなっています。

TMI 事故の背景

 スリーマイル島2号炉原発の営業運転開始前のセレモニーで、時のカーター政権のエネルギー問題担当官オレアリー博士は、「この新鋭プラントは、資本と忍耐と熟練と技術の集積であり、多くの点で奇跡のようなものであり、きらめくばかりの成功である。この偉業によって、原子力が、わが国にとって明るく輝かしい選択であると、はっきりと断定できる」と祝辞を述べています。しかし、この新鋭プラントで、事故の1年前から始められていた試運転中から故障や事故が相次いでいました。その中にこの事故の直接のきっかけとなったバルブの不調も含まれていました。蒸気発生器の蒸気は、タービンを廻した後、冷却されて水に戻り、水精製装置を通って蒸気発生器に送り返されていました。ところがその水精製装置には、建設コスト引き下げのために、原発以外でも使われていた既製品が据えられ、前後の配管との連結が上手くいっていなかったために、しばしばトラブルを生じていました。事故の日も、運転員がバルブを操作して、目詰まりと苦闘している時、突如バルブが閉じ、蒸気発生器への給水が断たれ、事故が始まりました。
 2号炉の建設時、スリーマイル島原発の所有者であるGPU 社の経営状態は悪化しており、建設費も急上昇中で、建設原価は計画時の約5.5 倍にも達しました。その資金難のため、建設費を22%も切り詰めることで、1日も早く完成させ、営業運転に入ることになりました。そうしたことが「安上がり策」「手抜き」を生み出し、「二重三重の安全装置があるから大事故はおこらない」との思い込みと相まって、ついに事故を招いたものです。かつては安定経営で、競争力の強かった電力業界も自由化の中で厳しい経営状況を余儀なくされ、安全重視が損なわれた結果が大事故につながったのです。

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チェルノブイリ事故・・・原子炉暴走事故

 1986年4月26日、旧ソ連のウクライナ共和国の最新型原子炉が事故をおこしました。核暴走事故です。運転開始後初めての定期検査時に、原子炉を停止する際にちょっとした実験をしようとしていたところ、計画変更やミスのため仕方なく不安定な低出力での実験をせざるを得ませんでした。設計上の問題も重なり、原子炉の反応が進んで暴走・爆発、砕け散った燃料と水の反応で水蒸気爆発が続きました。この暴走事故では、おかしいと気づいてから放射能が環境に噴出するまでの時間は、せいぜい数十秒程度と短く、かつ当局が事故について的確に公表しなかったので、周辺住民の避難は大幅に遅れました。事故の爆発規模は、TNT 火薬換算で500キロ程度の爆発なみと推算されています。この爆発は、原子炉の出力が1秒たらずの間に通常運転時の約500倍にも急増したために、原子炉内で急激に水蒸気が発生しておこったと推定されています。通常、原子炉内は制御棒によって出力急増を抑える仕組みが出来ていること、万一の緊急時には緊急原子炉冷却装置が働き、絶対に安全といわれてきたものです。しかし、この事故の場合は、反応をとめるために差し込んだ制御棒は、設計ミスのためにかえって反応を増加させてしまったのです。そのうえ緊急原子炉冷却装置はなぜか切られていました。

チェルノブイリ事故による放射能汚染

 この事故による放射能汚染被害は、広島原爆の約600倍ともいわれています。放射能は北半球全体にばらまかれ、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの三国だけでも900万人以上が被災し、40万人が移住させられました。短期間に大量被ばくした、80万人にも上る若い事故処理作業従業者の多くは放射線障害のために苦しんでおり、この人たちの中からいずれは何万人という死者が出ると予想されています。
被災三国では、日本の面積の4割に相当する14万5000平方メートルが、セシウム137で1平方キロメートル当たり1キューリー以上汚染されました(図1)。そこに住む人口は約590万人とわれており、これから恐らく10万人にのぼる癌が出ると考えられます。もし、東海原発でこの規模の事故がおきたら、東京は全滅ゾーンに入ってしまうのです。

map
(さらに詳しくは京都大学原子炉研のページを参照してください)
 http://www-j.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/Henc.html

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放射能による食品汚染

 地表や水が放射能で汚染されると植物・農作物が汚染されます。汚染された土地に棲み、よごれた水を飲み、汚染された植物を食べる動物はさらに体内に放射能を蓄積することになります。汚染地では、自家栽培の作物や家畜に頼らざるをえない人も多く、人々の体内放射能量は増加傾向が見られ、人々はいつも健康に対する不安を抱きながらの生活を強いられています。放射能による食品汚染は汚染された地域だけに限られた問題ではありません。チェルノブイリから1500キロ以上も離れたスカンジナビア半島にすむトナカイをはじめとして、イタリア、ギリシャ、フランス、を含むヨーロッパ諸国の野菜、家畜、ハーブ 、キノコ類など多種類の食品が汚染され、それが海外に輸出されます。日本では食品汚染の上限を370べクレル/kg と決められていますので、これをこえて汚染された輸入品は送り返されました。半減期の長い放射能(例えばセシウム137の半減期は30年)により高度に汚染された地域では、未だに農作物を食べることは危険です。

放射性ヨウ素による甲状腺癌の発生

 事故直後、放出された大量の放射性ヨウ素は、甲状腺を集中的に被ばくさせました。ベラルーシの小児甲状腺癌の発生は、事故前は年間約1人だったのが、事故8年目には82人にも達しています。

表1 百万人当たりの小児甲状腺がんの発生率(「原子力市民年鑑2002年』より)
 
86年
87年
88年
89年
90年
91年
92年
93年
94年
ペラルーシ
0.9
1.7
2.2
3.0
13
26
28
34
36
ウクライナ
0.7
0.6
0.7
0.9
2.2
1.8
3.9
3.5
3.1
ロシア
0.0
2.0
0.0
0.0
4.0
0.0
8.0
12
22

 このように原子力事故による放射能汚染は、事故がおきてから何年にも渡って続きます。広島・長崎では被ばく後50年を経たいまでも、癌や心疾患によりなくなる人がいます。TMIおよびチェルノブイリ原発事故の影響の全貌があらわれるのにはまだ、まだ時間がかかるでしょう。
 ここでは書ききれなかった事故の実体や現在も続く被害状況などは以下の資料を参考にして下さい。

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参考資料

書籍
1)「原子力発電で本当に私達が知りたい120の基礎知識」広瀬隆、藤田祐幸著 東京書籍 2000年
2)「知ればなっとく脱原発」反原発運動全国連絡会編 七つ森書館 2002年
  (久米三四郎、経済的苦況がまねいたスリーマイル島原発事故)
3)「脱原発へ歩みだす�」高木仁三郎 著作集 第一巻 七つ森書館 2002年
4)「原子力市民年鑑」原子力資料情報室編 七つ森書館 2002年
5)「内部告発」グレゴリー・メドベージェフ著 松岡信夫訳 技術と人間 1990年
6)「原発事故ーその時、あなたは 」 瀬尾健著 風媒社 1995年
7)「原発事故を問うーチェルノブイリからもんじゅへー」 七沢潔著  岩波新書 1996年
8)「食卓にあがった死の灰」高木仁三郎 、渡辺美紀子著 講談社現代新書 1990年
9)「チェルノブイリと地球」写真集 広河隆一 講談社 1996年
10)「チェルノブイリ事故による放射能災害」国際共同研究報告書 今中哲治編 技術と人間 1998年
11)「原子力読本 PartII チェルノブイリは警告する」神奈川県高教粗「原子力読本」編集委員会 東研出版
   1989年

映画
「ナージャの村」(チェルノブイリ・ベラルーシいのちの大地) 企画・監督 本橋成一
「アレクセイと泉」(チェルノブイリ・ベラルーシいのちの物語) 企画・監督 本橋成一

ホームページ
チェルノブイリ救援・中部 http://www.debug.co.jp/ukraine/
チェルノブイリ子供基金 http://www.smn.co.jp/cherno/
京都大学原子炉研 http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/cher-1index.html

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